ずっと建物の中にいたから知らなかったのだが、外は雨、場所によっては豪雨らしい。
来てくださった方々に感謝を込めて始まったヴェルキの「一楽章の交響曲」は、今年の演奏会の正しく“一楽章”である。演奏者でさえ7~8分くらいの曲だと感じさせる、一曲の中で繰り返される激しさと静けさが、聴き手を13分以上釘付けにする。
美しく、ひそやかだが力強い「杜の鼓動」の2楽章「魂の還る場所」。一つとして同じものはない、全て違う色の音が、葉の一枚いちまいである。それは演奏者一人ひとりでもある。
一部指揮者殿と司会者のジャニーズ話で始まる「ジャニーズに首ったけ!」。マンドリン・オリジナルやクラシックのファンではなくても楽しんでもらえるように、企画ステージは毎年他の曲とは趣向を変えている。
A-RA-SHIに始まり、仮面舞踏会、パラダイス銀河、お嫁サンバにギンギラギンにさりげなく、第一楽章は正に“王道”だ。誰も彼もが乗りに乗り、プレイヤーが指揮のもと弾いているのか、指揮者がプレイのもと踊っているのか、ぼくにはついにわからない。
個人的にはあまりパフォーマンスを重視しないのだけれど、「うちわ隊」に合わせて観客から自然に手拍子が起こった時は、ちょっと感動した。一楽章の終わり、司会者による手拍子のお礼は台本になかったことを、後で知った。
第2楽章はしっとりと聴かせる「涙くんさようなら」。70年代初頭のフォークのようなギターが響く。夏合宿で一部指揮者殿と「この曲はハッピーな曲なんでしょうか?」「きっとそうだと思うよ」などと話をした曲だ。
第3楽章は、底抜けに明るい「慎吾ママのオハロック」から始まり、思いがけずメロディが美しいことを知った硝子の少年、古参には新し過ぎるReal Face、今や懐かしいらいおんハート、そしてラテン乗りのWAになって踊ろう。またもや一部指揮者殿の独壇場にして本領発揮、腕をプロペラのように回す姿はまるでピート=タウンゼント、束の間ここは葛飾ではなく70年のワイト島化した。
WAになって踊ろうでは指揮者台を降りてステージを練り歩き、拍手喝采の中、第一部は終了した。
15分の休憩の後、演奏者は再び舞台に、指揮台には2部指揮者殿が登場した。
「ペールギュント第1組曲」の幕を開けるのは、おそらく世界で最も有名な曲の一つ、「朝」である。初夏の朝の水彩画のように爽やかで、清清しい。子供の頃、夏の朝は今と違って涼しかったことを思い出す。
続く「オーゼの死」は、打って変わって荘厳で重々しい。繰り返される旋律に、悲痛な意思を感じる。
主人公ペールを魅了する「アニトラの踊り」。異国情緒豊かなこの曲は、ルノワール描くところの異国の美女―妖艶な眼差しの肉感的な美女―を思い起こさせる。
そして「朝」と同じくらい有名な「山の魔王の宮殿にて」で、「ペールギュント第1組曲」は幕を下ろす。繰り返されるこの曲の強烈なリズムは、聴く者に安らぎよりも不安を、戦慄を、戦きを与える。創造ではなく破壊、それによるカタルシス。これも一つの「癒し」である。
そして22回目の演奏会最後の曲は、交響譚詩「火の山」である。広大な火山を彷彿させる雄大な序奏、忍び寄る自然の猛威、そして火山は噴火し、人々は対抗する術もなく恐怖する。あるいは、畏怖とすべきか。親子死別の哀しい静と、迫力ある噴火の動。そして、再び雄大な旋律を持って、曲は終わる。
観客の惜しみない拍手の中、2部指揮者殿がマイクを手に、会場に向かって話し始めた。今まで聞いた事のないくらい早口で、声も上ずっていた。ゲネプロの時、「指揮よりも話す方が緊張する」と話していた。緊張する彼を見る日が来ようとは!
そしてアンコール、「忙しい人のためのジャニーズメドレー」である。2部指揮者殿、普段とは別人のようにノリノリだ。高揚感は人を変えるらしい。
演奏会は終わった。観客は席を立ち、演奏者はステージを降り、椅子と譜面は片付けられ、雛壇は撤収され、楽器はしまわれ、運ばれ、ステージは空になった。もう何も残っていない。
音楽は音の軌跡の芸術だ。後には何も残らない。けれど、聞き手の心に轍を残すかもしれない。天使の羽ばたきよりも優しいトレモロと、地を穿つピッツィカートでできた轍を。
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